ただ、時が過ぎていくだけでした。
流れているのか止まっているのかも分からない。そんな日々が続いていました。
この記事は、私が経験した喪失・病気・介護、そして再起の話です。甥の夢が、私の一歩になるまでの記録です。
甥という存在
甥は中学に上がるのを機に私の家で暮らし始めました。スポーツが盛んな中学校が近くにあったこと、妹家族がいずれ生まれ育った土地に戻るという将来設計もあり、家の建て替えも行いました。老後は甥に・・・そんな気持ちも正直ありました。
甥は部活動のスポーツで県の大会メンバーにも選ばれるほどの実力がありましたが、精神的に繊細なところがあり、よくお腹を壊していました。
高校はスポーツ推薦で入学しましたが、1年生の時に突然「部活をやめたい」と言い出しました。チームメンバーが毎日説得に来たり、先生が車に乗せて学校へ連れ出したこともありましたが、信号待ちで車を降りて家に戻ってきた。そんなエピソードもあります。その後、高校も中退しました。
でも甥の偉いところは、通信制で高校卒業の資格をきちんと取ったことです。自分から「塾に行きたい」と言い出し、大学に合格。さらに自分の行きたい大学に1浪して再挑戦し、見事合格しました。
甥がYouTuberになりたいと言ったのは、ちょうどそのころでした。私が洗濯物を干していると、甥がこう言ったのです。「YouTuberになって稼いで、両親と私に楽な生活をさせてあげる」と
本当に嬉しかったことを、今でも覚えています。
ちょうどその頃、コロナの給付金(一人10万円)が出た頃で、「YouTuberをやるならパソコンが必要だから私が大学の合格祝いに10万円を出してあげる」「WindowsにするかMacにするか」「YouTubeをやるならMacじゃない?」——そんな会話をしていました。その矢先に、突然の訃報でした。まだ若い年齢でした。
コロナ禍の施設で、限界まで働いていた
私は老人施設で働いていました。
第一波のコロナの流行は、言葉では言い表せないほどの大変さでした。自分自身の不安と恐怖。家族に感染させてしまうのではないかという葛藤。それでも使命がありました。施設の入居者様は、私にとって家族同然の存在だったからです。心の中でいつも葛藤しながら、それでも現場に立ち続けていました。
施設ではクラスターが発生していて、甥の葬式(家族葬)には何とか参加できましたが、仕事が休めたのはその日だけでした。今振り返ると、家族より仕事を優先してしまっていたように思います。
施設がようやく落ち着きを取り戻したころ、私は下血し、潰瘍性大腸炎が悪化しました。原因を一つに決めることはできませんが、当時は心身の負担が大きい状態でした。
施設では日々、入居者様の死と向き合い、自分の無力さを感じ続けてもいました。
施設長の方針とも合わなくなっていた私は、少しゆっくり休みたいという気持ちもあり、退職という選択をしました。
復帰した矢先に、脳出血
1年半ほど休養したころ、以前勤めていた職場から連絡が来ました。施設長が移動したから、パートでもいいので戻ってこないかと。
嬉しかった。少しずつ前に進めると思っていました。
でも、職場復帰した矢先に脳出血で救急搬送されました。退院後、社会復帰ができるのかという不安を抱えながら、リハビリの日々が始まりました。

YouTubeの見方も知らなかった私が
そんな中、甥のことを思い出すたびに、甥がなりたかったYouTuberのことが頭をよぎりました。
恥ずかしながら、当時の私はYouTubeの見方すら知りませんでした。友達にYouTubeの見方を教えてもらい、ただひたすら動画を見る日々が続きました。何を見ていても、やる気は起きない。ただ、時が過ぎていくだけでした。
そんなある日、よみぃさんが演奏する「千本桜」に出会いました。圧倒的な技術と表現力。気づいたら涙が出ていました。
「ここまで弾けるようになるには、どれだけの努力をしてきたのだろう」
それからは毎日、朝から晩までストリートピアノの動画を見続けました。そして自分に問いかけるようになりました。「私はこれまで、何かにここまで努力したことがあるだろうか」と。
甥の代わりに、私がYouTuberになろうかと
甥がなりたかったYouTuberに興味を持ち始め、代わりに私がYouTuberになろうかと考えるようになりました。
調べると、徒歩で行ける距離にパソコンスクールがありました。相談に行くと「YouTubeは教えていないけれど、Twitterなら教えられます」とのことでした。それでもいい、と思いました。この一歩がなければ、その後のゴミ拾いも、このブログも生まれていなかったと思っています。
Xとブログ、甥の夢をつなぐ形で
甥の夢だったYouTubeを少しでも形にしたくて、動画を2本だけ投稿しました。義父にお弁当を届けていた頃の写真をつなげたもの、入院中の病室の窓から見えた空をつなげたもの。それだけでした。
体力を取り戻すことを優先してパートとして社会復帰しましたが、副業をする余裕はありませんでした。その後は義父の介護が大変になり、母の様子も変わってきて、唯一のはけ口がX(旧Twitter)でした。大切な人を亡くされた方や、介護で追い詰められている方の投稿を見るたびに、胸が締め付けられました。
そんな時、両学長のYouTubeで「ブログ」という言葉を知りました。「文章なら手軽に書けるかもしれない」と思いましたが、いざ書こうとすると書けない。ブログからも遠のいていきました。パートの仕事もやめ、「どうしよう」と我に帰りました。
それでも「自分の経験を言葉にして残したい」という気持ちは消えませんでした。今こうして書いているのは、あの時諦めなかったからだと思っています。甥の夢が、私の一歩を作ってくれました。
「福拾い」との出会い
リハビリで公園を歩いていたとき、X(旧Twitter)で「ゴミ拾い」の投稿を毎日見るようになりました。ゴミ拾いならリハビリがてらできるかもしれないと思うようになりました。
たった数個のゴミを拾っただけで、気持ちが驚くほど軽くなりました。土の匂い、春の芽吹き、鳥の声、朝の光。リハビリのために歩いていたはずが、自然に癒される時間へと変わっていました。
投稿に届く「いいね」や温かい言葉。同じように頑張っている人たちとの静かなつながり。SNSは、顔を合わせなくても寄り添ってくれる「心地いい距離」があって、それが心の支えになりました。
自然は何も求めない
花はただ咲き、木はただそこに立ち、海はただ広がっている。雨が降れば大地を潤し、風が吹けば木々を揺らす。その営みは、人の努力や成果とは無関係です。
だからこそ自然の中にいると、ありのままの自分でいいと感じられます。続けられなくても、何もできなくても、ただそこにいていい。自然はそう伝えてくれます。
たくさんの死を受け止めてきた分、空を見上げることが多くなりました。飛行機雲を見かけたとき、なぜか特に嬉しい気持ちになります。
今は、海岸や街中で
今住んでいる場所では、ゴミの処分は有料です。海岸のゴミは回収日が決まっていて、ボランティアゴミも決まった日に出さなければなりません。だから、毎日というわけにはいきません。
でもゴミ拾いができない日も、家庭ゴミを減らす工夫は続けています。
福拾いから始まったこの気持ちは、今では地球への恩返し、そして「恩送り」へと変わっています。恩送りとは、誰かから受けた親切や恩を、直接その人に返すのではなく、別の誰かへと送ること。今は海岸や街中でゴミを拾いながら、誰かへ何かを送り続けたいと思っています。
死を考えた夜のことを、正直に書きます
正直に言います。
私も、死を考えた夜が何度もありました。
私が踏みとどまれたのは、家族がいたから。友達がいたから。
甥の死があったから。
でも、それが全てではないと思っています。
親に傷つけられた人も、友達にいじめられた人も、家族も友達もいないと感じている人も、います。
それはあなたのせいじゃない。
私は、そういうとき自然が黙って寄り添ってくれるように感じました。何も言わずに、ただそこにいてくれる。
見返りも求めず、責めることもなく。
空はいつでも、あなたの上にあります。
どうしていいか分からなくなった時もありました。介護の現場で行き詰まった時も。自然に触れながら「なんとかなるさ」「時の流れに身を任せよう」と自分に言い聞かせた夜もありました。
それでも、前を向こうとする気持ちだけは手放さずにいました。
生きていることは、奇跡なのだから。
もし今、消えてしまいたいと思っているなら、一人で抱えないでください。
- 📞 よりそいホットライン 0120-279-338(24時間)
- 📞 いのちの電話 0120-783-556
詳細は公式サイトをご確認ください。
書くことで、自分の心が見えてくる
今の私にとって、ブログを書くという行為はジャグリングに近いと感じています。介護のこと、お金のこと、副業のこと、健康のこと・・・いくつものテーマを同時に抱えながら、それを言葉にしていく作業です。
ノートでも、スマホのメモでも構いません。自分の感じたこと、思ったこと、ふと思いついたことを書き出してみると、自分の心が少しずつ見えてくることがあります。
いろいろなことで悩んでいる方には、まず書いてみることをおすすめします。すぐに解決策が見つからなくても、「自分が何に悩んでいるのか」が言葉になるだけで、少し楽になることがあります。何かの糸口が見えてくるかもしれません。
※この記事に書いた内容は私さくらこの個人的な経験・考えをもとにしたものです。心の不調や深刻な悩みを抱えている方は、専門家や医療機関にご相談ください。

