脳出血で突然変わった私の人生観 後遺症・引越しの連続・海の近くに移住するまでの5年間

終活

2022年1月、私は脳出血で倒れました。

その頃の私は、仕事と義父の介護を一人でこなしながら、神奈川の5LDKの持ち家に母と姪と3人で住んでいました。母は精神的に不安定になってきていたため、その後、妹夫婦のいる東京に引き取られていて、広い家には私と姪の2人という状況でした。

今振り返ると、当時は仕事と介護が重なり、心身の負担が大きい状態でした。ただし、脳出血の原因を仕事や介護の負担だけに結びつけることはできません。

検査で示された血管年齢89歳相当

倒れた後に受けた検査では、血管年齢が89歳相当という結果でした。見た目では分からなくても、自分の血管や健康状態を見直す必要があると感じました。

脳出血が起きた場所:橋(きょう)

出血が起きたのは、脳幹の一部である「橋(きょう)」という場所でした。脳幹は呼吸や意識、嚥下、体のバランスなどに関わる重要な部位です。私の場合は出血の場所や状態を踏まえ、手術ではなく、血圧管理などを行いながら経過をみる治療になりました。

担当医からは「今の回復は奇跡だ」と言われました。

救急車を自分で呼んだ

あの夜のことは、今でも鮮明に覚えています。

ただ事ではない・・・回転性のめまいと嘔吐で、そう直感しました。隣の部屋に寝ている母を呼ぼうとしたけれど、声が出ませんでした。2階に寝ている姪を呼びたくても呼べない。それでも、なんとか救急に自分で電話しました。

「玄関の鍵は開いていますか」と聞かれ、「はい」と答えました。本当は夜中なので閉まっていましたが、そう答えるしかなかったのです。

電話を切ると、私は玄関に向かって這い始めました。立てない。でも、鍵を開けなければ入ってもらえない。そしてそのとき、不思議なことに頭の片隅でこんなことを考えていました。「窓ガラスを割って入られたら、修理代がかかる……」

玄関の鍵を開ける直前に、意識を失いました。

そこにちょうど、お風呂に入ろうと2階から降りてきた姪が、倒れている私を発見しました。姪は救急車に一緒に乗って病院まで付き添ってくれました。母は救急車のサイレンで目が覚め、私が吐いたものを片付けてくれていました。今でも何かあると、母はあの夜のことを話します。

目が覚めたら集中治療室にいた

気がついたら、集中治療室にいました。一瞬、ここはどこだろうと思ったけれど、すぐに記憶が蘇ってきました。

両手が動く。聞こえる。記憶がある。

安心したのもつかの間、頭に浮かんだのは義父のことでした。ご飯はどうしよう。どう連絡しよう。看護師から荷物を受け取ると、その中にスマホがありました。ケアマネジャーに電話して状況を伝え、「あとはお任せします」と言って電話を切るのが精一杯でした。後で看護師に見つかってしっかり注意されましたが、あのときはそれで頭がいっぱいでした。

周りは吸引が必要な患者さんも多く、自分はまだ良い方だと感じました。でも最初は小さなゼリーを一口食べるだけで吐き気が来て、点滴で対処する日々でした。それが少しずつ、ゼリーを食べても吐き気が出なくなっていきました。

その頃、次々と救急患者が運ばれてきて「ベッドが足りない」という看護師の声が聞こえました。私はとっさに「廊下でもいいですよ」と伝えると、個室が一つ空いているとのことで移動になりました。個室に移ってからは義父からの着信にも気づけるようになり、少しほっとしました。

そして私は、病院内でいけない患者になりました。一人でトイレに行っては看護師に注意され、廊下をこっそり歩いては見つかって注意され……。1日でも早く歩きたい一心でしたが、頭痛や吐き気は正直に体に出るため、無理のないペースで続けました。最終的に医師と話し合い、看護師であることと自己管理できることを伝えて、3週間弱で退院しました。退院後は血圧管理を最優先にして、横になって過ごす日も多かったです。

外見からは見えない後遺症

退院後も、後遺症は続いています。

急に立ち上がったとき、頭を動かしたとき、めまいが来ます。耳鳴りは常にあり、静かな場所ほど気になります。集中力が続かないため、以前のように仕事をすることが難しくなりました。

食事のたびにむせます。水を飲むにも注意が必要です。これが「嚥下障害」というものだと、実感しました。

障害認定はない、でも生活には支障がある

私は障害者手帳の対象にはなっていませんが、後遺症のためフルタイムで働くことは難しい状態です。外見からは分かりにくく、制度上の支援にもつながりにくい状態に、生きづらさを感じることがあります。

同じように感じている人が、きっとたくさんいると思います。

  • 難病を持ちながら、普通に見える生活をしている人
  • 慢性的なめまいや耳鳴りで、毎日対処しながら過ごしている人
  • 疲れやすい体で、元気なふりをして働いている人
  • 外見ではわからない痛みを抱えている人

あなただけではありません。

倒れてからの5年間

脳出血の後、私の生活は何度も変わりました。

持ち家を賃貸に出して、職場と義父の施設の近くにアパートを借りました。

その後、義父は施設から退去を求められ、別の施設を探すことになりました。理由は、マスクをしない入居者に大声で何回も怒鳴ってしまったことでした。義父はCOPDがあり、医師から「コロナに感染したら命に関わる」と言われていました。もともと理容師だったこともあり感染予防への意識が高く、マスクをしない入居者の行動が許せなかったのです。認知症の方に何度も怒鳴ってしまったことは問題でしたが、命がけで感染を恐れていた義父の気持ちを思うと、複雑な気持ちでした。

次の施設は山の中でした。費用を抑えようとフリー時間指定で引っ越し業者を頼んだところ、荷物が届いたのが夜10時近くになってしまいました。施設の方にはご迷惑をおかけしました。その夜は近くのホテルに泊まり、翌朝一番で荷物の整理をしました。

その後、仕事も辞めることになりました。収入がなくなる不安と向き合いながら、お金を貯める目的で妹夫婦の家に身を寄せることにしました。母も一足先に妹夫婦宅にいたため、妹家族と私と母との生活が始まりました。

プライバシーもなく、喧嘩が絶えない日々でした。それでも2年弱、そこで暮らしました。

海と私

学生の頃から、海が好きでした。ウインドサーフィン、ダイビング……海に関わることが楽しみでした。

友人ががんで亡くなったとき、甥が突然逝ったとき、つらいことがあるたびに海に行きました。何も言わず、ただそこにある海が、静かに気持ちを受け止めてくれていた気がします。

今は朝、海を見るだけで気持ちが落ち着きます。便利さよりも「心が落ち着く場所」を選んでよかったと、毎日思っています。

「タイムバケット」という考え方

YouTubeで「タイムバケット」という考え方を知りました。人生をいくつかの時期に分けて、その時期にやりたいことを書き出していくというものです。

「いつかやろう」は、いつか来ないかもしれない。脳出血を経験してから、その言葉が身にしみました。以前は老後をずっと遠い未来のことだと思っていました。でも大病を経験すると、時間の感じ方が変わります。

やりたいことは、今の体で、今できる形でやる。そう思えるようになりました。

健康観が変わった

脳出血から5年目の今、「健康だけを追い求める生き方」から「心が満たされる時間を大切にする生き方」へと変わりました。

好きなものを食べる時間、お酒を少し飲む時間。それが私にとっての至福の時間です。長生きすることだけを目的にした人生ではなく、今この瞬間を丁寧に生きることを大切にしています。

まだ元気な人へ

もし今、健康で元気に過ごしているなら、ぜひ「今」を大切にしてほしいと思います。

やりたいことを後回しにしないでほしい。会いたい人に会いに行ってほしい。行きたい場所に行ってほしい。

「いつかやろう」は、いつか来ないかもしれないから。

見えない苦しさを抱えながら生きている人へも、伝えたいことがあります。
あなただけではありません。同じように日々を乗り越えている人が、たくさんいます。

うまくいかない日があっても、それでいいと思います。無理に前を向かなくていい日もある。
ただ、今日も生きていること。それだけで十分だと、私は思っています。

いつかきっと、「あのときがあったから今がある」と思える日が来ます。私がそうだったように。

関連記事


※本記事は公開日時点の情報をもとに作成しています。制度・法律・サービス内容は変更される場合がありますので、最新情報は各自治体・厚生労働省などの公的機関でご確認ください。

※この記事は私さくらこの実体験・個人的な見解をもとにした情報です。介護・医療・法律・税務・相続などに関する判断は、必ず専門家(医師・弁護士・税理士・ケアマネジャー等)にご相談ください。本サイトの情報を参考にされた場合の結果について、運営者は責任を負いかねます。

さくらこ

はじめまして。
「さくらこ」です。
元看護師。関東在住で
高齢の母と暮らしながら実母・義父の介護、看取り、相続手続きを経験。
自身も脳出血で倒れ、後遺症と付き合いながら暮らしています。
介護・終活・葬儀について、現場で得た知識と実体験をもとに
発信しています。

さくらこをフォローする
終活