散骨を考える理由

終活

思い出すときが、供養であればいい

私は子どもがいません。
だから、自分の死後のことを考えたとき
お墓を守る人がいない現実と向き合うことになりました。

その中で
散骨という選択
自然なものとして考えるようになりました。

「忘れられないこと」より、「縛られないこと」

亡くなった人のことを
ずっと忘れずに思い続けなければならない。

供養とは
そういうものだと思われがちです。

でも私は
必ずしもそうでなくていいと思っています。

時々、ふと思い出してもらえたら、それでいい。
もし悲しんでくれる人がいるなら、それはありがたいこと。
けれど
無理に引きずらなくていい。

一層のこと
忘れられてしまった方がいいとさえ思うこともあります。

生きていくことは、それだけで大変だから

生きていくことは
それだけで十分に大変です。

誰かを失った悲しみを
ずっと背負い続ける必要はない。

残された人には
今を大切に
楽しく
実りのある生活を送ってほしい。

それが
私にとって一番の供養だと思っています。

散骨は「何も残さない」選択ではありません

散骨というと
「何も残らない」
「冷たい選択」
と思われることがあります。

でも私にとって散骨は
誰も困らない形を選ぶことです。

  • お墓を管理する人がいない
  • 継承の心配がない
  • 金銭的・精神的な負担を残さない

これは
残される人への配慮でもあります。

思い出は、形がなくても残る

供養は
お墓や仏壇がなければできないものではありません。

  • ふとした瞬間に思い出す
  • 空を見て、思い浮かべる
  • 心の中で「元気でやってるよ」と話しかける

それで十分だと、私は思っています。

思い出は
形がなくても残ります。

「忘れていい」と思えることも、優しさ

忘れないことが愛情で
忘れることが冷たい。

そんなふうに
白黒つけなくてもいい。

悲しみ続けることだけが
供養ではありません。

前を向いて生きていくことも
立派な供養です。

散骨という選択が教えてくれたこと

散骨を考えるようになってから
私は少しだけ
生きることが楽になりました。

  • 残すものを減らす
  • 縛りをつくらない
  • 自由でいてもらう

そう考えることで
自分自身も
今を大切に生きようと思えるようになりました。

まとめ 思い出すときが、供養であればいい

私が散骨を考える理由は
特別な思想や強い覚悟からではありません。

ただ
残された人に、
できるだけ負担を残したくない。

そして
自分自身も、
静かに自然に還りたい。

時々思い出してもらえたら、それでいい。
忘れられてしまっても、それも自然。

今を生きる人が、自由でいられること。
それが
私にとって一番の供養です。

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